ケーキ屋は閉店後 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-01-05

[]ああまずい ああまずい - ケーキ屋は閉店後 を含むブックマーク

仕事中に泣きそうになるってのはまずいだろ。基本的に。というか応用的にも。なにをやっているのだ私よ。


[]何時間何時間も - ケーキ屋は閉店後 を含むブックマーク

諦めろ諦めろ諦めろと、自分に言い聞かせ続けていたら、あまりにも諦めきれない自分に気付いてしまって、不意に楽になった。

諦めることを、諦めてしまったのだ。


泣いたり怒ったり傷ついたりしながら生きていくのが嫌だから諦めようとするわけだけど、「諦める」という行為自体が、カナシミとイカリをもたらして、結局ざっくり傷ついてしまうのだよなあ、という理屈。まちがってる? だとしても別にいいよ。

2006-08-30

[]涙をせき止める 涙をせき止める - ケーキ屋は閉店後 を含むブックマーク

泣いてもいいことがあったのだ。

泣かずにはいられないようなこと、もしそんなことが我が身に起こったら、と想像しただけで涙がにじんでしまうようなことが、本当になったのだ。


そして私が発見したのは、自分は少しも泣けないということだった。

息苦しくなり、まぶたが震える。

こみあげてくる嗚咽、しゃくりあげ、私は泣き出そうとした、何度も。


昔なら、と思う。

それも遠い昔のことではない、たとえば一年前の自分なら、私はここで、そのまま泣き出していたはずだと思う。

子どものように声をあげて、涙をぽろぽろとこぼして、洟をすすっていたはずだと思う。

泣けば泣くほど悲しくて、しゃくりあげなら延々と泣き続け、やがて少しずつ涙は止まり始め、私は自分の胸が、少しばかり軽くなっていることに気付く。

涙の効用というのは、あるのだ。

その証拠に、涙はあたたかくて、頬を伝うとき、少しばかり気持ちいい。あたたかな優しい手に、撫でられているような錯覚


他人の前で泣くのは、嫌だと思っていた。涙を流して憐れまれるほど、みっともないことはないと思っていた。

思っていた? 違う。

未だにそう思っている。実際私は、他人の前では泣かない。泣けないのだ。

目の前に人がいる、そう思うと私は、陽気な顔で、笑ってしまう。それはもはや、不自然な笑みですらない。


みっともないと思われるようなことをしたくないと思ってしまう。

こんなことで愛想尽かされるのは嫌だと思ってしまう。


けれど昔の私だって、部屋で一人きりになれば涙を流すことは出来たのに。


涙が盛り上がってこぼれおちる瞬間、喉の奥から泣き声がこみあげてくる寸前、それを押さえつけてしまう私がいる。

そして私は気付く。

私は私のことを、もはや信じていないのかもしれない。


泣き出した私に、泣きじゃくる自分自身に、愛想を尽かさないでいられる自信がない。

みっともない自分を、見放さないでいられると思えない。

泣いて泣いて、泣き続ける自分に、私自身がうんざりしたら。

こんな愚かでどうしようもない女からは遠ざかりたいと思ったとしたら。


そこまで考えて私は、自分がベランダの窓の外をぼんやりと眺めていることに気付いた。

この下には、と思う。

この下には確か、ブロックの目隠し塀があって、針金が突き出ていた筈。

だからここから落ちるのはまずいのよ、針金が刺さるのなんて、いかにも痛そうだし、見た目にもグロテスクだもの。


そして目線は、天井に上がる。

この上には、と思い出す。

屋上があるんだった。このアパートの良いところは屋上があることで、屋上へ上がる階段は、部屋を出たすぐ傍にある。

煙草を吸いながら屋上を歩き回って、どこから降りるのが一番いいか探す方が、ベランダから闇雲に落ちるよりは、ずっとマシよね?


もちろん、どちらもしないけど。

だって私は、死にたいわけじゃないから。

この部屋には一人、間抜けでみっともない、どうしようもない女がいて、しかもその女は今にも泣き出しそうで、私はなんとか、この女の泣き顔を見ずに済むようにしたいだけなんだ。

そのために死ぬなんて、あまりにも大げさすぎる。

たった三階建てのアパートじゃ、屋上から飛び降りたって、死にはしないだろうけど。怪我をするだけで。だけどそれでも大げさすぎるのは変わらない。


もうしばらく、がんばろう。

なんとかして、自分をもう少し、好きになろう。

泣いている自分に愛想尽かしせずに済む程度の感情を回復させよう。

そうすれば私は、また泣けるようになるかもしれない。涙の効用を、味わうことができるかもしれない。


それまで今抱えている痛みは薄れることも減ることもなく、涙に洗い流されずにただそこにあり続けるのかもしれないと思うと、少しばかり気が遠くなるけれど。

2006-06-24

[]死なない女 死なない女 - ケーキ屋は閉店後 を含むブックマーク

ああもう駄目だ、死んだ方がいいし、あたしはもう死ぬし、生きていたって一つもいいことなんて無いんだ。

そう思いながら横たわってから既に数時間が経っていて、私は自分が決して死にはしないことを知っていた。もちろん、いつかは死ぬだろう。全ての人類と同じように。

けれどそれは、今ではないのだ。

私はため息を吐いた。

そう、今ではない。それが最大の問題だ。そもそもひとは、恋人を失ったという理由では死なない。そういうものは、死因にならないのだ。

私はもう一度ため息をついて天井を見上げた。

全くもって、腹立たしいことだ。


ベランダから身を投げることを、何回か考えた。

その部屋は三階にあったので、墜死の可能性が低いのだということを、私はじゅうぶん理解していたし、死にたいわけでもなかったのだけれど。

痛みがあればなあ、と思っただけなのだ。激しい痛みがあれば、何も考えなくて済むのかなあ、と単純に考えただけ。

窓を開けて、ベランダに出て、下を見下ろして。

真下には一台の車が止まっていることに気付いた。

かつて、恋人であったひとの、車。

あれを壊すわけにはいかないなあ、車がなければあのひとは困ってしまうからなあ、修理代の問題もあるしなあ。

だから私は、部屋に戻って、窓を閉めた。


死にたいわけではないのだけれど、考えるのを止めたいと思っている。何も感じなくなりたいと願っている。

そのためには生きるという行為は、いかにも不向きだ。何かが起こってしまうから。感じて、考えて、対応しなければならない何かが、あまりにも多すぎるから。


死ぬのは怖いなあ、怖いと思う自分が情けなく思えるけれど、どうしようもなく怖いなあ。

死にたいわけではないし、こんなことで死んでもいいと思っている自分もそれはそれで情けなくてみっともなくて、だからこそ今ここで終わりにしたいのだけれど、ああでもそんなことをしたら悲しむかもしれないひとがいるわけで、こんな情けない私を惜しんでくれるひとがゼロではない、そのことを思えば、自分から死ぬなんてことは、本当にとんでもないことで、ああだから、ああだから、ああだから。

どうすればいいか判らない。自分で死ぬわけにはいかないんだ。それはあまりにもあんまりにもかっこわるいことだと、私は知っているので。

夜のうちに忍び込んできてくれた誰かが私の首を絞めてくれればいい。誰に頼もうか。だけど誰に。そのひとには必ず、迷惑がかかってしまうよ。

誰も私を殺してくれない。私自身ができないことを、他人に期待するのが筋違いなんだってことも、私は理解しているのだけれど。

死に通じない苦しみがあるということが、実感できない。眠っている間にごく自然に、心臓が止まってしまえばいいじゃないか。そうすれば私を惜しんでくれるひとたちが味わうのは、シンプルな悲しみだけで済むのだから。


コンビニに買い物に行った。

缶コーヒーを買って、甘ったるくて少し苦い液体をすすりながら、それが美味いのか不味いのか、わからないことに気付いた。自分がこれを欲しがっていたのかも思い出せない。

次の瞬間、身体がぐらりと揺れて、私の左足は歩道から車道に落ちていた。バランスを崩してそのまま、アスファルトの上に倒れかけた私は、空気が震え、ごうっという音と共に、車が一台こちらに向かってくることに気付いた。

判断する必要はなかった。身体は反射的に、正しく動いた。

気がつけば私の身体はちゃんと歩道の上に戻っていて倒れてもおらず、その傍をかすめるようにして、車は走り去った。

髪とジャケットが、風でふわりと持ち上がった。

ああそうか、今私は死にかけたんだ、ということに気付くのに、数秒かかった。


今のひとがそうだったんだ、私を殺してくれる、親切な誰かだったんだ。

私の願いを聞き届けてやってきてくれたのかもしれない、誰か。

たぶん今のが最高の、最上のチャンスだったね。何が起こっているのか判らないうちに訪れる、迅速な終わり。顔を踏みつぶしてくれれば更によかったんだが。

それなのに。

私の身体は、動いてしまった。


私は缶コーヒーを更にもう一口、飲み下した。あたたかくて甘い液体が、胃袋に滑り落ちていく。

なんでかなあ、なんで動いてしまうかなあ。

それともこれで、よかったのかなあ。


もしもあの親切な誰かさんが、私を轢いてしまったら、やっぱり辛いだろうからなあ。保険に入っていたとしても、お金の問題は出てきてしまうだろうし、心だって痛んでしまうかもしれない。必要ないのにと私が思っても、伝わらないだろうから。


車は汚れてしまうし、アスファルトだって汚れてしまうし、コンビニだって店の前で客が事故に遭えば、迷惑だよ。

花が道端に供えられて、そうすればその脇を通りかかる近所のひとたちはちょっぴり嫌な気分になってしまうだろうし、夜には薄気味悪く思うかもしれないし、そんな事態を避けられたのだから、咄嗟に動いた私の身体は偉いのかもしれないね?


それにやっぱり、かっこわるいしね。


失恋してふらふら歩いてたら車に轢かれて死んだのよアノヒト、なんて噂されるのは、さすがに私の美学に反するわ。

そうだもう認めよう。こんな理由でひとは死なない。恋人などいなくとも、人生は続くのだ。続いてしまうのだ。

いずれ私は立ち直る。私はそのことを知っている。それはかつて恋人だったひとへの裏切りなんじゃないかしら、などと思う自分も、いずれ消えてしまうだろう。

私はそのことを知っている。悔しいけれど、認めたくないけれど、知っているのだ。

私は生きて、生き続け、笑うようになるだろう。いずれ。今ではないけれど、でもいつか。

だから私の身体はあのとき、咄嗟に動いてよかったのだ。それは正しいことだったのだ。


今はそう思えないけれど絶対にそうなんだよと自分に言い聞かせながら、私はまた、缶コーヒーを一口飲んだ。

2006-06-22

[]知らない女 知らない女 - ケーキ屋は閉店後 を含むブックマーク

私は自分が何故恋人に見限られたのか知っていたので、彼の決断に反対することは出来なかった。私に出来ることは彼の足元にすがりついて慈悲を請うこと、許しを願うことだけだったのだが、プライド邪魔して、それすら出来なかった。

違う。もういい、正直に言ってしまおう。私は最後には彼の足元にすがりついた。許しを願った。涙を流して謝った。けれどそれは、遅すぎたのだ。

あの決定的な瞬間、「別れなくてはならないかもしれない」と言われたあのとき、私は実際に視界がすうっと狭まり、暗くなるのを感じ、自分の身体が冷たくなっていくのもわかったし、口中に苦い味が広がるように思えたのだけれど、にも関わらず、あるいはだからこそ私は、咄嗟に笑ってしまったのだ。


「やっぱりそうだったんだね」

 私が薄く微笑みながらそう言うと 彼は大きく目を見開いた。

植木鉢の世話はどうする? どっちが引き受けるべきだと思う? 私の引っ越しが済んだら、取りに来ればいいのかな?」

「私は当然このアパートを出て行かなくちゃならないけれど、それまで荷物を置かせて貰うことはできますか?」

「あなたの車を、しばらく使わせてください。今までと同じように。処分する荷物を、そうやって運びたいのです。図々しいお願いでしょうか?」

「……食事を、今日の夕食を、作りかけていたのだけれど、ちょっと今は、料理を続ける気分じゃないみたいで。だから、外で食べてきて欲しいのだけれど、いいですか? 本当に申し訳ないけれど」

ぺらぺらと喋り続けるこの女は、一体誰なのだろう。涙をこぼすこともなく、顔を歪めることもなく、平静な声で、笑みすら浮かべながら喋り続けるこんな女を、私は知らない。


自動操縦、という言葉が思い浮かぶ。

私のカラダは、私の感じていることとは無関係に動くのだ。

ああ、だけどそれはとても有り難いことだね。

私はぼんやりと思う。わからないもの、本当は。自分がどうするべきなのか、考えられないもの。

明日からも続く人生を、今続いているこの時間を、どうやって過ごすべきなのか、想像できないもの。

木偶人形のように、何も考えられず、立ち上がって動くことすらできない私の代わりに、私の知らないこの女が喋ってくれるなら、動いてくれるなら、本当にとても助かる。

そしてそのまま、知らない女は、私の代わりに話を進めた。

呆然とした表情で、かつて恋人だった男は、彼女の話に耳を傾けている。

そうだったのか、という納得の表情がそこに浮かぶ。この女はもう、しばらく前から、おれと離れる日が来ることを想定していたのだ。

おれが切り出すずっと前から、この女はおれを見捨てるつもりだったのだ、たまたまおれが先に賽を投げた、それだけだったのだ。

男の顔が冷ややかになる。声に怒りがこもり、語調が強くなる。

おれを捨てるつもりだった女、別れを切り出されても涼しい顔でいる女、おれのことを本当に好きだったのか、それすらあやしい、嘘つきな女。

「かもしれない」と付け足された言葉は、流れの中で消えてしまう。全ては確定した事項になってしまうのだ。

怒る男と知らない女、私じゃない二人が、私のこれからを決めてしまう。私が一人になるための段取りをつけていく。

嫌だ、と叫びそうになって、けれどこらえる。既に確定した事柄を、覆すだけの力が、私にはない。覆すべきなのかもわからない。

知らない女が微笑みながら話し始めたあの瞬間、男の顔から私への信頼が消えていくのを、私は既に見てしまった。

このひとはきっと、二度と私を信じない。相手に対する不信の念を抱きながら共に生活することは、彼に苦痛をもたらすだろう。それは嫌だ。

私の不在が彼を苦しめるのならば、それは耐えられる。けれど、私の存在が彼の重荷になるのならば、私は消えてしまいたい。


ブラディ、オブラダ、人生は続くよ。

私の人生は続いた、続かされた。私以外の二人が話し合って決めた事柄に、私は忠実に従った。従える限りは。

困るのは、動けないときだ。どうすればいいのか、思い出せなくなるとき。頭の中に詰まっているのは藁くずかなにかで、考えるということがどのようなことなのか、私は既に忘れてしまった。

そんなときは、彼女が出てくる。私の知らない女が。

彼女は快活なときの私と似ている。楽しそうに笑う、嬉しそうにものを食べる、喜んでひとに会いに行く。

はりきって荷造りをすすめ、軽口を叩く。鼻歌をうたうときすらある。

目を細めて笑い、明るい声で挨拶をして、「しょうがないよね、それにすっきりした部分もあるの」などと平然と言う。

私と似ているようで、やはりこの女は違う人間だ。へらへらと軽薄な振る舞い、自分にも生きる権利はあるのだと、楽しむことは出来るのだと、本気で考えているように見える。

もしかすると、私は昔から、このような人間だったのだろうか。軽薄でどうしようもない女。だから恋人に捨てられることになったのだろうか。

さみしい、と言った直後に、さみしくないと笑う、嘘つき女。

私は彼女が憎くてたまらない。お前はどうして笑えるのだ。笑うべきではないし、楽しむべきではないことに、どうして気付かないのだ。

私のふりをするのは止めてくれ。私のカラダを返して欲しい。

ああ、けれど。


最初にカラダを取り返したとき、私は恋人だった男の足元に、すがりついた。そして虫を見られるような目で、見られた。

さみしいし悲しいし、傍にいさせて欲しいという私の懇願は、口にしている自分自身に吐き気を催させるほどの、みじめで卑屈な、いやらしい言葉のつらなりだったので、当然受け入れられることはなかった。

私が出来るのは、そんなことだけなのだ。私の言葉には、振る舞いには、表情には、下水の臭いがしみついている。


彼女がニセモノだなどと、誰が言えるだろう。

軽薄な嘘つき女よりも卑屈な木偶人形のほうが優れているなどと、誰に思えるだろう。

何時間でも黙って座り込み、時折ぼんやりと自分の頬が濡れていることに気付き、ここはどこで、自分が誰なのか、はっきりと思い出せずにいる今の私の方が、よほどニセモノらしいではないか。

少なくとも彼女は、私の知らないあの女は、生きることはできるのだ。


昔の自分は、かつての私は、もう少しマシな人間だったと感じるのは、気のせいなのか?

あの頃の私は、どこに行ったのだろう。今より多少は強かったはずの自分は。

……それともそんな自分は、最初からどこにもいなかったのだろうか。私は以前からずっと、卑屈で軽薄でみじめで嘘つきな女だったのだろうか。

さみしいと人前で口に出来る、さもしい人間だったのだろうか。

他人の前でうっかり涙を流してしまうような、自制のきかない愚者だったのだろうか。


知らない知らない、知りたくない。

私は自分が見たくない。

私はずっと、自分のことを知らなかったのだ、きっとそうだ。

自分のいやらしさから目をそむけて、気付かないふりをしていたのだ。だから捨てられることになったのだ。本当はそのことに、私はもう、気付いていたよ。


鏡を見るのが苦痛だ。

そこに映っているのは知らない女、そして知る価値を見いだすことのできない女。

知り合いたくないのに、それでも私が付き合わなくてはならない女だ。

ブラディ、オブラダ、人生は続くよ。

そうなのだ、人生は続いてしまう。

私はこの女と、生涯を共に過ごさねばならない。この知らない女、知りたくもない、女と。

uqjtnpwzhouqjtnpwzho2014/05/05 08:17wwvpfnjeojhiucmvf, <a href="http://www.qwqdztprya.com/">jahwmaonxm</a> , [url=http://www.jdwaovnmpb.com/]mtlwgilnxt[/url], http://www.vmeiedsjdl.com/ jahwmaonxm

2006-06-21

[]サカナ サカナ - ケーキ屋は閉店後 を含むブックマーク

私は自分がサカナであると、信じていました。

水から放り出されれば、生きていけなくなるのだと。


ですから水から放り出されたとき、私は必死にもがきました。

全身をくねらせ、口を開けて、顔を歪め、「助けて」と繰り返しました。

照りつける太陽にウロコを焼かれ。

全てが終わりになるということ以外何も考えられず。

「こんなのは嫌だ」と叫びました。


だけど君はサカナじゃないよ、と誰かが呆れたように囁きました。

その証拠に、水から出ても、君は死なずにいるじゃないか。

そうやってもがき始めて、もうどれだけの時間が過ぎた?

本物のサカナなら、とっくに死んでいるはずじゃないか。


そして、サカナは気付きました。

いつの間にか自分の身体を覆っていたウロコが消えていること、背ビレも尾ヒレも既にないこと。

残ったのは、ヒトの手足と、ヒトの肌。


……息ができる。

私がそう呟くと、声は答えました。

それはそうだよ、君はヒトだもの。ヒトは水から出ても生きられるんだ。

……胸の奥が痛む。

肺を使って呼吸をするのが久しぶりなのだから、それは仕方ない。けれど大丈夫、もうすぐ慣れるよ。

……ほんとうに?

ほんとうに。慣れてしまうんだよ、そういうものは。

……この痛みは本当に、呼吸のせいなの?

わからない。そうじゃないかもしれないね。

……だったら。だったら慣れるかどうかなんて誰にも、

わかるんだよ。その痛みが呼吸のもたらすものじゃないとしても、君は必ずそれに慣れる。


そして私は息を吸い込み、一息ごとに痛みが薄らぐことに気付きました。


それではほんとうに、私はサカナではなかったんだ。

よかった、と私は呟きました。

サカナは哀れです。水から追い出されたら死ぬしかない生き物は、水の慈悲にすがって生きるしかない存在は、あまりにも惨めです。


ヒトは、ぼんやりと考えます。

あの有名な「シュレディンガーの猫」の話を思い出します。次々と生まれる、無数の平行宇宙のことを。


私が水から放り出されたあの瞬間、宇宙は分裂したのかもしれない。

遠いどこかの宇宙には、サカナのままの私がいて、あのまま死んでしまったのかもしれないね。

だとしたらなんてかわいそうなサカナの私。

地上はこんなにも美しいのに。空気は甘く、日の光はあたたかく、したたるようにあざやかな緑が、水の外には広がっていたのに。

そのことを知らず、そのことに気付かず、ただ水だけを恋うて乞うて、どれほど求めても水が報いてくれることはなく、それでもそのことを恨めず、かといって捨てられたことを認めることも出来ず。

サカナはただ、乾いて死ぬ。地上の美しさも、懐かしい水も、ただサカナからは遠ざかる。

なんてあわれなサカナの私。

私はサカナでなくてよかった。


ヒトの足で私は、どこにでも行ける。もう、水にとらわれることはない。

長い間使われることの無かった手足は、すぐに痛みを訴えるけれども。水の中で守られていた皮膚は、日の光にさらされて、いくつも水ぶくれを作ってしまっているけれども。

でも大丈夫。こういうものには、いずれ慣れる。私はそのことを知っている。

私は歩ける。だから歩く。

それだけでいいんだ、それだけで。

私はサカナでなくて、よかった。

ヒトである自分に気付けて、本当によかった。

あのまま死んでしまわなくてよかった。

生きていてよかった、生きられることが、こんなにも嬉しい。







…………でも、ほんとうに?


私はもしかすると、サカナになりきれなかっただけではないのか?

生きていてよかったというのは、サカナになれなかった自分を慰めるための言葉なのでは?

私は自分の足で歩くことが出来る。けれどそう、どちらの方向に歩き出しても、私は水から遠ざかることになる。

あの水は私の水ではないから。傍に留まることも許されない。


あの瞬間、放り出されたあのときに、私の息が止まっていれば。

歩き出すことはなかったのに。遠ざかる必要もなかったのに。


乾いて、干涸らびて、醜く変わり果てることになったのだとしても。

あがいて、もがいて、苦しみ抜くことになったのだとしても。

死ねば私は、水辺にいられた。

水から離れるということがどんなことか、学ばすに済んだ。それがどんな気持ちのするものなのか、知らずに済んだ。

歩く自分、遠ざかる自分に、裏切られることはなかったのだ。あのとき死んでさえいれば。


なぜ傷は癒えるのだろう、ヒトがこんなにも早く、慣れてしまうのはなぜなのだろう。

手足が痛まなくなった。肌の水ぶくれが消えた。呼吸はずっと楽になり、私の足は一日ごとに、たくさんの距離を稼ぐようになる。


私は歩く。歩きながら笑う。歌を口ずさむときもある。

地上は美しい、歩くことは楽しい。サカナには知ることの出来ない喜び、ヒトだから味わえる嬉しさ。


サカナでなくてよかった、サカナでなくてよかった、自分がヒトだと気付くことが出来て、私は本当に幸せだった。

一足ごとにそう考える、呟く。

サカナでなくてよかった、サカナでなくてよかった、サカナでなくてよかった。

その気持ちに嘘はない筈だ。

サカナはあまりにもみじめで哀れすぎる。


サカナでなくてよかった、サカナでなくてよかった、サカナでなくてよかった。

けれどそう、時折。ほんの時折。

違う声が混じる。かすかに聞こえる。


サカナでなくてよかった、サカナでなくてよかった、サカナでなくてよかった。

けれどサカナに、なりたかった。


サカナでなくてよかった、サカナでなくてよかった、サカナでなくてよかった。

それでもサカナで、ありたかった。


サカナでなくてよかった、サカナでなくてよかった、サカナでなくてよかった。

どうしてサカナに、戻れないのだろう。


サカナでなくてよかった。

サカナでなくてよかった。

サカナでなくてよかった。


けれどサカナに、なりたかった。

サカナのままで、死にたかった。





それでも私は、死にはしない。

歩く。歩かなくては、ならない。


サカナでなくてよかった、サカナでなくてよかった、サカナでなくてよかった。


その言葉が、信じられればいいのに。