2006-08-30
■ [チョコレイト]涙をせき止める 
泣いてもいいことがあったのだ。
泣かずにはいられないようなこと、もしそんなことが我が身に起こったら、と想像しただけで涙がにじんでしまうようなことが、本当になったのだ。
そして私が発見したのは、自分は少しも泣けないということだった。
息苦しくなり、まぶたが震える。
こみあげてくる嗚咽、しゃくりあげ、私は泣き出そうとした、何度も。
昔なら、と思う。
それも遠い昔のことではない、たとえば一年前の自分なら、私はここで、そのまま泣き出していたはずだと思う。
子どものように声をあげて、涙をぽろぽろとこぼして、洟をすすっていたはずだと思う。
泣けば泣くほど悲しくて、しゃくりあげなら延々と泣き続け、やがて少しずつ涙は止まり始め、私は自分の胸が、少しばかり軽くなっていることに気付く。
涙の効用というのは、あるのだ。
その証拠に、涙はあたたかくて、頬を伝うとき、少しばかり気持ちいい。あたたかな優しい手に、撫でられているような錯覚。
他人の前で泣くのは、嫌だと思っていた。涙を流して憐れまれるほど、みっともないことはないと思っていた。
思っていた? 違う。
未だにそう思っている。実際私は、他人の前では泣かない。泣けないのだ。
目の前に人がいる、そう思うと私は、陽気な顔で、笑ってしまう。それはもはや、不自然な笑みですらない。
みっともないと思われるようなことをしたくないと思ってしまう。
こんなことで愛想尽かされるのは嫌だと思ってしまう。
けれど昔の私だって、部屋で一人きりになれば涙を流すことは出来たのに。
涙が盛り上がってこぼれおちる瞬間、喉の奥から泣き声がこみあげてくる寸前、それを押さえつけてしまう私がいる。
そして私は気付く。
私は私のことを、もはや信じていないのかもしれない。
泣き出した私に、泣きじゃくる自分自身に、愛想を尽かさないでいられる自信がない。
みっともない自分を、見放さないでいられると思えない。
泣いて泣いて、泣き続ける自分に、私自身がうんざりしたら。
こんな愚かでどうしようもない女からは遠ざかりたいと思ったとしたら。
そこまで考えて私は、自分がベランダの窓の外をぼんやりと眺めていることに気付いた。
この下には、と思う。
この下には確か、ブロックの目隠し塀があって、針金が突き出ていた筈。
だからここから落ちるのはまずいのよ、針金が刺さるのなんて、いかにも痛そうだし、見た目にもグロテスクだもの。
そして目線は、天井に上がる。
この上には、と思い出す。
屋上があるんだった。このアパートの良いところは屋上があることで、屋上へ上がる階段は、部屋を出たすぐ傍にある。
煙草を吸いながら屋上を歩き回って、どこから降りるのが一番いいか探す方が、ベランダから闇雲に落ちるよりは、ずっとマシよね?
もちろん、どちらもしないけど。
だって私は、死にたいわけじゃないから。
この部屋には一人、間抜けでみっともない、どうしようもない女がいて、しかもその女は今にも泣き出しそうで、私はなんとか、この女の泣き顔を見ずに済むようにしたいだけなんだ。
そのために死ぬなんて、あまりにも大げさすぎる。
たった三階建てのアパートじゃ、屋上から飛び降りたって、死にはしないだろうけど。怪我をするだけで。だけどそれでも大げさすぎるのは変わらない。
もうしばらく、がんばろう。
なんとかして、自分をもう少し、好きになろう。
泣いている自分に愛想尽かしせずに済む程度の感情を回復させよう。
そうすれば私は、また泣けるようになるかもしれない。涙の効用を、味わうことができるかもしれない。
それまで今抱えている痛みは薄れることも減ることもなく、涙に洗い流されずにただそこにあり続けるのかもしれないと思うと、少しばかり気が遠くなるけれど。