ケーキ屋は閉店後 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2006-06-25

[]人間は進化する 人間は進化する - ケーキ屋は閉店後 を含むブックマーク


今にして思えば、あれはきっとシャンプーの香りだったのだと思う。君は香水をつけるタイプじゃなかったから。


ぼくは記憶力が非常に良くて、人にもよく褒められる、だからずっとそれは、自分の美点のひとつなのだと思っていた。

夏の日、ぼくは一人で映画を見ていた。タイトルも覚えている(ほら記憶力が良いって言っただろ)、『悪魔のような女』。

シャロン・ストーンイザベル・アジャーニが共演したあの映画だよ、昔むかしのヒット作をリメイクしたという話だった。シャロン・ストーンイザベル・アジャーニもとても綺麗だったけれど、ぼくは正直、少し退屈していた。早く終わらないかな、とぼくはぼんやりと考え、腕時計に目を走らせようとして、暗闇の中では文字盤が読み取れないことに気がつき、思わず軽く舌打ちをした。

その時、闇の中をあの香りが漂った。

ぼくは思わず顔を上げた。この香りには覚えがある。そんなことはあり得ないけれど、でもこれはひょっとして、君の香りじゃないだろうか?


外界の情報を得るとき、ぼくたち人間は、圧倒的に視覚に頼っているらしい。そして、その次が聴覚。触覚や嗅覚、味覚はごくわずかな割合で働くだけ。

だからなのだと思う、ぼくらはなにかを思い出すとき、まず映像から思い出す。例外はあるものの。

例えば、誰かのことを思い出すとき、顔は思い出せるけど、どうしてもその声は思い出せない、ということはよくあるだろう? その逆はあり得るけれど、ずっと少ない。大抵の場合、ぼくらが誰かの声を思い出せるときは、その顔だって思い出せるものなんだ。

そして、ここからはぼくの思いこみに過ぎないのかもしれないけど、ぼくらがだれかの匂いを思い出すとき、ぼくらは大抵、その人にまつわる全てを思い出せる。それも匂いから思い出せる誰かというのは、映像から思い出せる誰かよりも、ずっと鮮明で強烈なイメージを持っている気がする。

もしかするとこれは視覚の優位性や、ぼくらが普段嗅覚を用いないで生活していることとは無関係なのかもしれないけどね。だって、その人の匂いが覚えこめるような誰かというのは、その人の顔かたちしか覚えることができないような誰かよりも、ずっと親しい間柄の人であるはずだから。その親密さが、記憶を鮮やかに引き出すのかもしれないけれど。


あの夏、映画館の闇の中で漂ってきた君の香りに、ぼくはすっかりうわの空になって、映画なんてどうでもよくなってしまった。

君がいる。同じ闇の中、きっとそう遠くはないどこかに、君が座っている。おそらくは映画が終わって場内が明るくなった時に、僕をみつけて声をかけるために。

暗い画面の中をクレジットが流れ、スクリーンを幕が覆ってしまうまで、ぼくはじっと座っていた。君が映画をみるときは大抵、スタッフロールが流れ終わるのを待つことを知っていたから。それからぼくは立ち上がり、君を探した。

君は見つからなかった。すっかり明るくなった場内にも、映画館ロビーにも、太陽が照らしつける外の大通りにも。ぼくががっかりしてもう一度映画館の中に戻ってきたとき、すれちがった何人かのにぎやかなグループから、君の香りがぼくのほうに向かって流れてきた。ぼくは思わず振りかえり、彼らの行方を目で追った。

そうだったのか、とぼくは落胆しながら思う。どうやら君が使っているシャンプー(だと思うのだけど)は、そうめずらしい銘柄ではないようだ。あの中の誰かが、君と同じ香りをさせていたようだから。

考えてみれば、君があの場所にいるはずもなかった。あの夏の一月半、ぼくらは遠く隔たった場所で生活していたのだから。


あの夏、ぼくは何度も、君と同じ香りの誰かに翻弄された。頭では分かっていても、君がぼくの近くにいるはずなどないのだと理解していても、ぼくは何度も香りに惹かれて君を探した、様々な場所で。すれ違うたくさんのひとたちの中から、君と同じシャンプーの香りだけを嗅ぎわけることができるなんて、嘘みたいだと、自分で思った。その夏の日まで、ぼくはそれほどまでに鋭い嗅覚を、持ったことがなかったから。


生物は進化する。人間も進化する。必要に駆られてのことだと、ぼくは思う。あの夏、君と離れて暮らす一月半はほんとうに長かった。耐えられないくらいに。ぼくの五感は鋭くなった、ぼくの記憶力は以前にもまして冴えるようになった。それらはすべて、君を懐かしむためのもの。君を思い出して、長い長い夏の日を、君に会えない夏の日を、なんとか過ごすためのものだった。


夏が終わり、秋が過ぎて、冬が来た。

ぼくは何度も鏡を見るようになった。どうということのない平凡な顔が、鏡の中からぼくを見返す。黒くまっすぐな髪、大きくも小さくもない目、特徴をあげることもできないようなごくふつうの鼻と口。けれどもこの顔を見ることを、君は以前好んだものだった。ならばこの顔のどこかに、君が好んだナニカがあるはずじゃないか? 

そのナニカを、どうしてぼくは見つけることができないのだろう。

もしかするとぼくは、君が好んでくれたナニカを、なくしてしまったのだろうか。長い夏のどこかで、通り過ぎた場所のどれかで、ぼくはナニカを落としてしまった?

君がぼくに執着を見せることをやめたのは、だからなのか?

君はぼくを拒絶して、ぼくにはそれが何故だかわからなかった。わからなくても時は過ぎる。傷は癒えていく。


ある人がぼくに恋を告げた。ぼくのことを好きだと言った。嬉しくもあったし、不思議でもあった。ぼくはその日、家に帰って、再び鏡を覗きこんだ。もしかしたら、君が好んでくれたナニカを、見出せるのではないかと期待して。そこには代わり映えのしないぼくの、つまらない顔があるだけだったけれど。

ぼくは自分がすでに立ち直ったことを確信する。君のことを思い出しても、もはや心臓を冷たい手で握り締められたような気持ちになることはない。口の中に苦い味が広がることもない。新しい恋が訪れれば、すべては変わっていくものなのだろう。新しいあの人を好きになるべく努力することを、ぼくは誓う。


二月の末、ぼくは偶然、君と同じ車に乗らなければならない用事ができた。ぼくはどきどきしながら、君の顔をそっと見た。君の表情は変わらない。そして喜ばしいことに、ぼくの心も平静を保っている。嬉しくてぼくは、思わず微笑む。

ぼくは後部座席に乗り込む。君は前の席に滑りこむ。そして最後にもう一人、やはり前に乗り込む、ぼくのよく知らない人が。車が走り出し、前の座席の2人は、仲良く話し始める。ぼくは気楽な気持ちで黙っていた。前の座席に座る二人は、似合いの男女に見える。ぼくの心は動かない、そのことにぼくは安堵の息を洩らす。けれど。


信号が赤に変わり、車が止まる。別に急ブレーキをかけたとか、そんなことがあったわけではない。でも車がほんの少し、揺れたのは確かだ。その揺れがきっかけとなって、狭い車中に君の香りが不意に広がり、やわらかく、車中を満たした。

ぼくは自分の記憶力が良いのは美点なのだとばかり思っていた、その時までは。


思い出してしまった。

色素の薄い君の髪が、どれほど優しくぼくの指にからみついてきたのか、そのことを。

思い出してしまった、君の首筋の白さを。肌のやわらかさ、なめらかさ、あたたかさを。

君の目を。そこに浮かんでいた光を。君の目がぼくの動きを追ってくれたこともあったのだという、そのことを。

ぼくの目が貪った、君のことを。指を、髪を、肩を、唇を、背中を。君だけのかたちを、君だけの動きを。


君は痩せていて、動作がしなやかで、まるで猫のように見えた。君の声は低いほう、ささやくとき、なんともいえない深みを帯びる。君のあの言葉、君がぼくのほうに手を伸ばすときの様子、ぼくの頬を君の青いシャツが撫でたときのこと。君の部屋、あのポスターとグレイカーペット

そしてなによりもあの香り。夏、ぼくが君を捜し求めるよすがとしたあの香り。

君の笑い方も、君の話し方も、君の言葉の選び方も、みんなみんな好きだったよ。でもなによりも好きだったのは、そんなふうに笑える、そんなふうに話せる、そんなふうに言葉を選ぶことのできる、君自身だった。

好きだった?




ガウ、ホントハ、今デモ好キダ。


ぼくは息苦しくなって、胸に手を当てた。記憶が今までにない鮮やかさでぼくを圧倒する。

傷は癒えた筈だったのに。痛むことなど、もうないだろうと、信じていたのに。


君は気づかない、ぼくを見ることすらない。自分がぼくに及ぼした影響を、君が知ることはないのだろう。でもそれでいいんだ、それがぼくの望みでもあるんだから。

その日の夜、ぼくが部屋でほんの少し泣いたことを、君は知らない。




そしてそう、時間は経つね。望むと望まざるに関わらず。

ぼくの五感が進化したのは、もうずいぶん前の話だ。今ではぼくは、君のことを思い出すことすら稀なんだ。君がぼくのことを忘れてしまったように、ぼくも君のことを忘れた。

それでいいのだとは思うけれど、ときどき少し寂しくなるのも確かだ。ぼくの君に関する記憶は、今ではとても曖昧になってきている。進化したはずのぼくの記憶力はずいぶん後退してしまったようだ、仕方のないことだけど。

ねえ、ところで。君は知っているかな、広い意味では、退化も進化に含まれるのだということを。能力が衰えてしまうこと、それも進化の一種なんだよ。

生物は進化する。人間も進化する。必要に駆られてのことだと、ぼくは思う。だからきっと退化も、必要に駆られてのことなのだろう。衰えるべき力、そのままでいてはならない能力が、世の中には存在するんだ。

ぼくは今では。


君の香りを、思い出せない。